お別れ 影は、光がないと存在できない。 だからぼくは、光がないと生きていけない存在だった。 大切な人を探して、ふらふら、ふらふらと影から影へと飛び移る。大切な人はぼくにとっての光そのものだった。 その行為を笑う心の貧しい人は少なからずぼくに石を投げたけれど、その石はぼくの頭部をかすかにかすめただけだった。 そしてぼくは大切な人を見つけた。もの憂げな表情を一目見て、心臓の奥、そのまた後ろの方にある温かいものがぐいぐいと引き寄せられていく感覚を経験した。 けれどぼくは、奇病を患っていた。大切な人に触れることを許されない奇病を生まれ持っていた。 何度も何度も、大切な人の温もりを感じようとその手を伸ばした。しかしぼくの手のひらは大切な人の体をすり抜ける。ぼくが感じたのは虚空を切る感触だけだったのだ。 地面に触れることはできる。人に触ることもできる。しかしながら、しかしながら大切な人だけは一切触れることを許されやしなかった。 絶望的な真実を痛感したぼくは大切な人から距離をおき、生まれたての頃のように影の中でひっそりと生きることを決めた。 そんなとき、縫いぐるみのように全身が継ぎ接ぎになっている、口調がとても乱暴な人と出会った。大きくてモコモコした尻尾が特徴的な人だった。 その人は首元にボーリングの球程もある鈴を首に着けていた。それはその人が動いたり、言葉を交わしたりするときに、ちりんと綺麗な音を立てた。 その人はぼくとお喋りをするようになった。薄暗い場所になんかいないで出てこい、と説教じみたものを食らったこともあった。 その度にぼくは目付きを尖らせて、影の中でしか生きられないのだということを一から説明して回った。 その人はぼくの頭を撫でるのが好きだった。ぼくの頭をその人の手が撫でる毎に、その人の首元に鎮座している鈴が心地よい音を奏でた。 ぼくはその人の手が大好きだった。見た目こそ縫いぐるみのそれと酷似しているけれど、生の温もりをしかと感じることができた。ぼくはそれが大好きで仕方なかった。 そうしてある日、ぼくはその人に触れられなくなってしまった。 あの日から何日が経ったのだろう。ショックで影に閉じ籠ってから、いくつの月日が流れたろう。 ぼくが辛うじてわかるのは、かつてのその人がぼくの目の前で事切れる寸前であることだった。 いかにも苦しそうにぜえぜえと息を吐いて、口から赤い液体を垂れ流し、開けているのだか閉じているのだかわからない目をこちらへ向けて、腹部に突き刺さった細長い刃物を抜こうと自棄になっていた。 ぼくはそれを呆然と眺めていた。信じたくない現実は妙にクリアな視界で、現状を送り届けていく。どこかで火災があったのか、煙の匂いが鼻孔をくすぐった。 ぼくは怖じけつつも一歩を踏み出した。ぞわり、影が忍び寄る。ぼくはそろそろとその人に歩み寄ると、そうっと顔を覗き込んだ。 あの日以来の、懐かしい顔。それを再び見ることになるのがまさかこんな状態でだなんて、あんまりにも残酷だと思わざるを得ない。 その人はぼくへと向かって手を伸ばした。大好きな手、それはぼくの頭部をすり抜けて地面へと落ちていく。ぼくがその人を大切に思う気持ちを失わない限り、その人も、ぼくも触れ合えない。どんなに触りたくても触れやしない。 その人は弱々しく口を開くとぼくの名を呼んだ。それからびくりと震えると、動かなくなった。 生の匂いが消失していくのを感じていた。死んでしまった。逝ってしまった。もう二度と話せない。笑った顔を見ることも、泣き顔を慰めるのも、怒り顔をなだめることもできない。 ぼくの頭をすうっと冷たいものが横切っていった。予想外にも、ぼくは存外冷静を保っていた。 ぼくは地面に落ちたその人の手に触れた。その人は事切れることにより「その人」からただの「死体」へと変わった。だから簡単に触れることができたのだと理解したぼくがいた。 ぼくはその人だった死体の手を、おもむろにぼくの頭へと置いた。 あれ、おかしいな。ただの死体のはずなのに、どうしてこんなに温かいと思えるの? 不意に抱いた疑問をトリガーに、かちりとぼくの感情の泉は溢れだした。目頭が熱を帯びる。生温い液体が頬を伝い流れていく。 頭から感じるずっしりとした重みと死体の冷たさは、紛れもなく真実だった。けれど、乗っかっている拳は生きているかのように優しい温もりを放っていた。 死んじゃった、死んじゃった、死んじゃったんだ。そう心中で呟けば呟くほど、ぼくの中で悲しみは増幅していく。 ああ、大切な人が離れてく。ぼくの知らないところへいってしまう。もう会えない。会えないんだ。 実感した死の絶望は、全身に鋭い斬撃を与えてくるようだった。茹だる意識を遮断するために目を閉じて、ぼくはその人の上へと倒れ込んだ。 その人の首元に着いた鈴がちりん、と一度だけ揺れた。 耳の奥底、どこか遠いところから鈴の音が鳴り響いていた。 2014/05/26 光を失った影。 |